遠江と熊野信仰

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 鎌倉時代のはじめ建久(けんきゅう)元年三月曾我太郎助信は、熊野の御師に契約状を与えて旦那となっている。すでに熊野の御師は貴族だけでなく、武士とのあいだに師旦関係をむすんだ。このばあい御師は地方豪族の一族すべてを旦那にした例が多い。中世に遠江国には、熊野新宮(速玉神社)の造営料所があった。向笠郷ら三十三郷である(『速玉神社文書』、児玉洋一『熊野三山経済史』)。そして遠江国は、熊野の御師実報坊(院)が檀那を独占できる地区であった(『米良文書』)。
 なお承元二年(一二〇八)十月尼将軍政子は、熊野三山に参詣した。
 熊野信仰は、東国の地頭級の武士にうけいれられ、何回も参詣した人もある。このばあい人夫・伝馬が徴発されるので、下級の農民でも参詣したことになる。遠江国は熊野神社と早くから関係があったから、参詣した武士や農民も多かったであろう。