北条氏本家の御内人(みうちびと)平頼綱は、宿敵安達泰盛をたおして権力の座について七年あまりで失脚した。あとをうけた北条貞時は、頼綱時代の悪政を改革する方針を発表した。このときに、頼綱時代の敗訴人が大勢おしかけてきたという。裁判に不正が多かったからである。
文保(ぶんぽう)元年(一三一七)五月、幕府は守護の注進状(ちゅうしんじょう)(報告書)に誓詞(せいし)を書き加えさすことにした。自分の支柱に全幅の信頼がおけなくなったからである。元応(げんおう)元年(一三一九)に、幕府は山陽・南海両道十二か国の地頭・御家人に対し盗賊の追捕に努力させた。