文保(ぶんぽ)二年(一三一八)大覚寺統の尊治(たかはる)親王は、持明院統の花園(はなぞの)天皇(一二九七-一三四八)の譲りをうけて、天皇の位(くらい)についた。後醍醐天皇(一二八八-一三三九)である。天皇は平安時代の宇多天皇(八六七-九三一)や醍醐天皇(八八五-九三〇)の政治を理想とし、これにならおうとし、意欲的であった。そして、将来性のある貴族を家柄(いえがら)などにかかわりなく登用した。【記録所】天皇は元亨(げんこう)元年(一三二一)十二月、後宇多法皇の院政をとどめ、親政を宣言し、記録所をおく。また近臣たちと、玄恵(げんえ)を指導者として宋学(朱子学)を研究した。それは、家来や子が、君とか父に対し、守るべき道をといた倫理である。
天皇と近臣たちの政治熱が高まり、その理想とする政治理念を実現しようとする望みが強くなるほど、北条氏を討伐する決心がかたくなる。
両統系図