正中(しょうちゅう)元年(一三二四)九月、後醍醐天皇は、諸国の兵を集め、挙兵しようとする寸前に、密謀が六波羅にもれて、天皇の腹心は捕えられた。天皇は無関係であることを勅使に弁明させて、ようやく事件はおさまった。しかし持明院統側では、すぐに後醍醐天皇から皇太子邦良(くになが)親王に譲位してもらい、自統の量仁(かずひと)親王を皇太子にたてるよう幕府に運動した。
翌年、幕府は天皇を廃したい意向を表明し、邦良親王も位につかれることを幕府に運動している。嘉暦(かりゃく)元年(一三二六)に邦良親王がなくなった。天皇は自分の皇子をと望まれたが、幕府は両統迭立の申しあわせを尊重し、量仁親王(のちの光厳天皇)を皇太子にたてる。このため天皇は、討幕の決意をかたくした。
元徳(げんとく)二年(一三三〇)の飢饉に、天皇は朝廷だけの判断で米価の公定・酒造米の公定・米商人の手持米の強制販売などの思いきった処置をとった。天皇は、はじめて政治をとおして、人民と接する感激を味わったであろう。そしてさらに幕府を倒そうとの決心をかためた。