隠岐へ移られる

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 【護良親王の挙兵】後醍醐天皇が隠岐にうつされた元弘二年(一三三二)三月の翌月、天皇の皇子護良(もりなが)親王(一三〇八-一三三五)は、吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)(奈良県吉野郡吉野町)の本堂(蔵王堂)を根拠にして、遠く各地の武士に挙兵をよびかけながら、山間に出没して戦い、幕府がわを悩ました。親王は延暦寺(天台宗総本山)を味方につけるため、天台座主(てんだいざす)になったことがある。そこで大塔宮(おおとうのみや)とよんでいる。
 
 【千早城】また正成は、赤坂城を奪いかえし、千早城で兵をあげる。京都では正成の進撃を予想して警戒をはじめた。
 元弘三年(一三三三)正月、播磨(兵庫県)の赤松則村(あかまつのりむら)(円心)をはじめとし、各地で守護らが北条氏打倒の兵をあげた。そして円心は摂津(兵庫県・大阪府)に進み六波羅軍と戦いをはじめる。
 後醍醐天皇は、閏(うるう)二月二十四日、隠岐を脱出し、伯耆(ほうき)(鳥取県)の土豪名和長年にむかえられて、船上山(せんじょうせん)(鳥取県東伯郡)に進んだ。