幕府は足利高氏らを大将に大軍をさしむけた。北条氏は、高氏の子千寿王(四歳、のちの義詮)を人質にとり出発させている。高氏は三河八橋(やつはし)(愛知県碧海郡知立町)から内通する旨の書状を伯耆船上山の天皇に送った。そして近江鏡宿(かがみのしゅく)(滋賀県蒲生郡竜王町)で天皇の命令書を受け取っている(『梅松論』)。
閏二月に赤坂城や吉野の城もおちいると、幕府の全軍は千早城に集中した。大番衆(おおばんしゅう)として京都にあった新田義貞(一三〇一-一三三八)は千早城を攻撃する。三月ごろに大塔宮(おおとうのみや)の命令をいただいた義貞は、ひそかに帰国して、旗あげの準備をした。
高氏らは四月京都につき、船上山にむかうが、丹波(たんば)の篠村(しぬむら)八幡宮(京都府亀岡市)の社前で、源氏再興を願った。(そのときの祈願文は、にせものらしいとの説がある)そして結城宗広(ゆうきむねひろ)をはじめ、信濃(長野県)守護小笠原氏・大友氏・阿蘇(あそ)氏・島津氏などに天皇の密勅(みっちょく)を伝え、兵をつのった。大友氏は、密書を受け取るまえに、使者を京都にだしている。高氏は五月二日千寿王を鎌倉から上野国(群馬県)に脱出させた。高氏が天皇に味方したことは、北条氏にとってほとんど致命的であった。