元弘の乱を戦いぬいた護良親王は、奈良の北西の信貴山(しぎさん)にたてこもっていた。天皇が出家せよとのすすめをきかず、高氏討伐の軍を起こそうとする。しかし六月二十三日に征夷大将軍に任ぜられて入京し、高氏の上にすわった。武士の棟梁にふさわしい鎮守府将軍と鎌倉幕府の頭首を象徴する征夷大将軍は、後醍醐天皇としては否定すべきであった。これから後醍醐天皇の親政(天皇自身が直接に政治を決裁する)がはじまる。【飯田荘】六月七日天皇は、後伏見上皇に対し、遠江飯田荘などの御領を保証した(『園太暦』観応二年十一月廿六日条)。