天皇の親政 公家一統の政

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 天皇が北条氏を滅ぼしてのちの政治を、翌年の建武(けんむ)(一三三四)の年号をとり「建武の新政」とか「建武の中興」とよんでいる。足利高氏・新田義貞という武士の代表者が命令をきくことになり、ながいあいだの武家政治から、朝廷や貴族が天下をにぎる平安朝の昔にかえったのだから、天皇や側近たちは「公家一統(くげいっとう)の政」とか、「公家一統の天下」と誇らしげに語っていた。
 天皇は中国の宋(九六〇-一一二六)の時代に朱子(しゅし)が集大成した儒学のうちの朱子学(道学)を習い、徹底した中央集権制で、すべての権力が皇帝の一身に集まる宋朝の政治体制を理想とし、実現に努力する(佐藤進一『日本の歴史』9ー南北朝の動乱ー)。
 天皇は、側近者で苦労をともにしてきた人びとを登用し、関白(かんぱく)の制度をやめ、天皇が全権をにぎって政治を親裁することにした。