そこで政府は、地方庁(国衙)にたいし民政についての命令をだすばあいにも、国衙と守護所の両方にあてて同じ内容のものをだすことにした。その実例が残っている。これでは、一般の民政に関係させなかった鎌倉幕府時代の守護よりも権限が拡大されたことになる。京都の貴族は、たとえ地方に赴任しても土着で武力をもったこのころの守護に対抗できるはずがない。
こうして天皇は理想とはちがい、地方制度で『難太平記』のいうように「国司守護を定めた」のであり、これに対して『神皇正統記』も「公家の御世にかへりぬるかとおもひしに中/\猶武士の世に成ぬるとそありし」と批評している。