なお地方制度で政府は失敗した。足利尊氏は、幕府が滅びると、すぐに子の千寿王(のちの義詮)を鎌倉に置き、細川和氏に守護させた。もとの幕府の直轄地をおさえたのである。元弘三年(一三三三)十月二十日義良(のりなが)親王(六歳)は、北畠親房(一二九三-一三五四)の子陸奥守顕家を従えて、陸奥国衙(宮城県宮城郡多賀城町)におもむき、陸奥(むつ)と出羽(でわ)の政治をすることになった。これは鎌倉を中心とした尊氏の勢力に備えた政策である。護良親王と親房の共同計画だといわれる(『保暦間記』)。【足利直義】尊氏の対抗策は、十二月成良(しげなが)親王を弟の足利直義(ただよし)がいただいて、鎌倉に下ることであった。【上野親王庁】翌建武元年正月、親王は上野太守(こうずけたいしゅ)に、直義は執権となり、上野親王庁(『武家年代記』)が開かれる。上野親王庁には、政所(まんどころ)と問注所(もんちゆうしょ)が設けられ、関東十か国の行政と裁判権をもっていて、鎌倉時代からの特別地域がそのまま認められた。上野親王庁の実権は、直義がにぎっている。東国の武士は、みな直義に帰服し、京都の命令にたやすくおうじないのが実情であった。