大内裏造営 造幣事業

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 天皇の絶対的地位を天下に示そうとする目的で、大内裏(だいだいり)(天皇の御所と中央官庁)の造営と造幣の事業が進められる。元弘の乱で焼けた大内裏の造営は、建武元年(一三三四)正月に発表された。その費用として政府は、三つの財源をあげた。㈠安芸(あき)(広島県)・周防(すおう)(山口県)の国衙(地方庁)の領地からの租税をあてる。㈡諸国の地頭・荘官・名主に対してすべての土地面積を報告させ、それにより、正税(しょうぜい)(国衙領)・年貢(ねんぐ)(荘園)をはじめ、雑税をふくめて、その二十分の一を期限まで御倉(みくら)(朝廷のきめた高利貸業者の土倉)に納めることを命じ、田地十町ごとに毎年一人、一日の人夫をださせる。(遠隔地は米銭で代納したろう)㈢新銭を鋳造し、紙幣を発行して造営費の不足をおぎなう。
 この財源は、まんぞくに恩賞さえもらえない武士にとって、心外であったにちがいない。しかもこれらの課税は農民に転嫁される。しかし民力は、うちつづく戦乱で疲弊していた。
 財源の一つとして乾坤通宝という銅銭と紙幣を発行して急用にあて、裏付けとなる米や銭は、しだいに徴収する政策がある。「産業の項」に述べるように、南北朝の貨幣経済の進みは大きいので、これを背景とした造幣の計画は無謀といえない。しかしその実行された痕跡は残っていない。
 天皇と近臣たちが朝廷の権威をかざるためはじめた、大内裏造営もどこまで進められたか疑問である。
 新政府の財源はなにもない。北条氏の旧領を独占した分から、支出するほかなかったわけである。