護良親王の失脚

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 足利尊氏の動きをみつめていたのは、護良親王である。親王は天皇が伯耆(ほうき)(鳥取県)から帰京しても入京しないで、尊氏をねらっていた。こののちも親王は、尊氏に対立する動きをつづけた。しかし元弘三年十月義良親王と北畠顕家が赴任前に、親王の征夷大将軍は解任されている。ついに建武元年(一三三四)六月、親王は兵を集めた。尊氏も兵を集めて対抗したので、天皇もしかたなく親王を捕えさせ、これを尊氏の弟直義(ただよし)にひきわたし、鎌倉に送ってしまった。親王は天皇の了解のもとに行動したが、失敗したため、罪をひきうけたのであろう。護良親王の没落したのち、天皇は尊氏と対決せねばならない。八月に決断所の機構が大改革され、尊氏直系の高師直(こうのもろなお)なども参加した。九月尊氏は参議になるが、あれといい、これといい、天皇が尊氏に譲歩した融和政策であろう。