新政失敗の原因

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 日本では宋とちがい、貴族が健在であり、官僚制を創出する基本条件がこの新政にはなかった。しかも日本の武士は地主で領主で、中央集権には巨大な抵抗力をもっていた。中国と全然ちがう社会構成を正しく認識し、諸勢力の評価をなしえなかったのが新政瓦解の原因である、と佐藤進一氏は述べている。
 【二条河原の落書】京都の市民は、建武元年八月二条河原(にじょうかわら)(賀茂川の二条あたりの河原)に新政権を批判する落書(らくしょ)をおいた。雑訴決断所とか、天皇から朝にでた命令が、夕方には改められるというような定見のない政治を鋭くついている。北畠親房の子顕家が、天皇に諫奏を呈出し、時弊を指摘して、綸旨の権威失墜などを痛烈に批判したのは延元三年(一三三八)五月である(黒板勝美「北畠顕家の上奏文に就いて」『歴史地理』昭和四・十一)。しかしこれは元弘三年からの時弊とみてよい。もはや反乱がいつ、誰によって起こされるかというだけである。