尊氏鎌倉をとりもどす

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 政府は建武二年(一三三五)八月一日、成良(しげなが)親王を征夷大将軍として、北条時行らを追討させた。尊氏は征夷大将軍と、諸国総追捕使(そうついぶし)にしてほしいと願った。それが認められないまま、尊氏は二日に天皇の命令をまたずに出発する。朝廷に望みを失った武士は、喜んで尊氏に従ったという。武蔵守・相模守としての尊氏には、時行の反乱を平定する責任があるといえる。天皇は尊氏を征東将軍とした。尊氏には途中で近江(滋賀県)・美濃(岐阜県)・遠江の将士が従った(『太平記』)。【橋本の戦】八月九日に尊氏は時行の軍を遠江橋本で破り(『足利尊氏関東下向合戦次第』『梅松論』)、また直義の軍と合流し、十九日、鎌倉を恢復した。【中先代】時行を中先代(なかせんだい)とよぶ。高時までを先代といい、尊氏からあとを後代とすると、その中間にあたるからである。