【天竜川の浮橋】十二月十一日ついにたちあがった尊氏と直義は、逆襲に成功し、逃げる義貞を追撃した。義貞が天竜河の浮橋をそのままにして退却したのは、美談とされている。義貞は尊良親王、尊氏・直義軍は成良親王を奉じている。尊氏らを追撃した北畠顕家も、父親房とともに義(のり)良親王をいただいている。顕家の軍をはばむために、上杉民部大輔が追撃した。その先陣が遠江国につくと、守護の今川心省は二千余騎で参加した。しかし民部大輔は、途中で顕家の軍に攻撃され惨敗する。なお奥州管領斯波家長は、上杉民部大輔のあとをおった。顕家の奥州軍は鎌倉を占領し、さらに東海道を西上する(『梅松論』)。その軍隊は、沿道でかなりの掠奪をしたことが『太平記』にみえる。