延元元年(一三三六)正月の京都は、戦乱のちまたとなった。正月三十日、足利軍は京都に入ったが官軍に破れ、丹波篠村(しぬむら)をへて、摂津打出浜(うちでのはま)(芦屋市)におちのびる。ここでも敗戦し、大内弘幸らの軍船に乗り九州にのがれた。【光厳上皇の院宣】その途中で持明院統(じみょういんとう)の光厳(こうごん)上皇から院宣(いんぜん)をうけている。その内容は不明だが、新田義貞らを追討せよとの意味であろう。これで尊氏からは「天皇の敵」という悪名はきえ、上皇の命令をうけて天皇がたと戦うということになった。いままで尊氏軍は、朝敵だから敗戦に敗戦をかさねていたのである。