吉野へ移られる 吉野朝廷

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 十二月二十一日後醍醐天皇は、ひそかに京都から吉野(奈良県吉野町)に移り行宮(あんぐう)(かりの皇居)をたて、延元(えんげん)の年号をもちいた。吉野は天然の要害で、防衛の拠点としてめぐまれた条件をそなえている。しかもここから伊勢大湊(伊勢市内)や和泉堺(堺市)にいたる連絡線は確保されていた。だが進んで敵を攻撃する基地ではない。ここに吉野朝廷がはじまる。光明天皇は、京都にあって建武の年号をつかう。【南北朝】南北朝の名称は、そのころにもつかわれていた。