その第一期は、尊氏の挙兵から北畠顕家(あきいえ)・新田義貞が延元(えんげん)三年(一三三八)に戦死し、翌四年後醍醐天皇のなくなったころまでである。第二期は、正平二年(一三四七)八月楠木正行(まさつら)によって動きだした。しかし翌三年正月に正行は戦死し、吉野の行宮(あんぐう)などは高師直(こうのもろなお)によって焼きはらわれた。第三期は、幕府の執事高師直と尊氏の弟直義(ただよし)を中心とする武家がわの分裂による戦いである。貞和(じょうわ)五年(一三四九)から延文(えんぶん)元年(一三五六)にかけてつづく。そしてその両者とも死亡した。この戦いのうちに、尊氏は南朝に降参するが、北畠親房(ちかふさ)は、京都に進撃している。延文三年(一三五八)尊氏は、五十四歳で死亡した。第四期は、戦乱が地方に拡大するけれども、のち中央では南朝元中(げんちゅう)九年、北朝明徳(めいとく)三年(一三九二)に両朝が合体し、建武二年(一三三五)から約六十年つづいた戦いが終わった。