遠江の北朝方

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 【今川氏 松井氏 横地氏 朝夷氏 三方原の戦】『集古文書』に収録した建武四年(一三三七)七月四日付の遠江国御家人三和次郎左衛門尉光継の軍忠状(ぐんちゅうじょう)、(戦いのてがらを書いた文書)『蠧簡集残篇(とかんしゅうざんぺん)』に収録した建武四年七月五日付山城国御家人(やましろのくにごけにん)松井八郎助宗の軍忠状によると、遠江守護今川入道心省は、光継・助宗・横地治部丞・朝夷彦五郎らをひきいて、七月四日遠江三方原で井伊城の兵と合戦した。井伊の一族で戦死したものもある。
 後醍醐天皇の皇子尊澄法親王は、尊雲法親王(護良親王)についで、妙法院門跡、天台座主になったが、笠置落城ののち讃岐(香川県)に流された。帰京ののち天皇の命令で延元元年(一三三六)十月北畠親房を従え、伊勢に下向し、一之瀬(伊勢市の西南)に滞在して、国司北畠顕泰とともに、基地の確保につとめる。二年の春、法親王は還俗して宗良(むねなが)と改めた(『華項要略』)。