延元三年(一三三八)正月、顕家軍は高師冬・細川頼之らの防衛軍と、美濃青野原(関ヶ原)で激突した。師冬軍は敗戦したが、顕家が兵をさいて新田義貞と合流する企図を阻止するのに成功した。
【心省の猪突猛進】夜に入って戦いのやんだころ、今川心省は部下が後退をすすめるのをきかずに近所の非人(ひにん)小屋で夜を明かそうとしたので、負傷した部下が「こんな馬鹿大将は焼き殺したほうがいい」といい小屋に放火した。心省はしかたなく、黒地川の陣に退いたという(『難太平記』)。部下あっての大将、心省がまだ部下をよく掌握していない姿である。
顕家は勝ったが、兵力を消耗したので、進撃をあきらめ、伊勢路を選んだ。そして各地に転戦したが、遂に五月二十二日和泉堺浦(堺市)で戦死し、新田義貞も閏七月越前(福井県)で戦没した。