遠江南朝北朝の戦

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 【遠江守護仁木義長】暦応二年(一三三九)七月二十二日北軍の高師泰・同師冬は大平城と鴨江城を攻め、二十六日後者を攻略した(『諸家文書纂』)。今川心省との作戦関係は明らかでない(十月守護は仁木義長にかわる)。

大平城跡(浜松市大平)

 【天皇崩御 蒲神主北朝に降る】八月十六日、後醍醐天皇は、吉野の行宮で崩御になった(八月末に蒲神社神主源清保は今川氏に降っている)。その悲報はまもなく宗良親王のもとにも伝えられた。戦いの常とはいえ、駆けつけることのできない親王の心情は同情される。『新葉和歌集』十九にその時の和歌がある。
 【親王の挽歌】「後醍醐天皇かくれさせ給し比、遠江国井伊城にこもりてひまなく侍りしかは、まゐる事もかなはぬよし、四条贈左大臣もとに申遣とて、彼所の紅葉にそへて遣し侍し、
          中務卿宗良親王
  おもふには猶色あさきもみちかなそなたの山はいかゝ時雨る
    かへし、
          四条贈左大臣
  此秋の泪をそへて時雨にし山はいかなるもみちとかしる」
 
 十月三十日手頭峯城を奪取されたのは、南軍の意気が沮喪していたからであろう。

千頭峯城跡(引佐郡三ヶ日町)

 【三嶽落城 大平落城 井伊谷宮】翌興国元年・暦応三年正月に、引佐郡三嶽城(城跡は国の史跡指定)がおちいった。
 足利尊氏は、関東の戦線から指令をだし、心省の嫡子今川範氏に駿河・遠江の敵を攻撃させる。八月二十四日師泰・義長・範氏らは、大平城をおい落し、城を焼き払った(『詫磨文書』大福寺所蔵『瑠璃山年録残編』)。大平城は『鶴岡社務記録』に「八月廿四日、井伊城没落」とあり、井伊氏の詰城(つめしろ)である。浜北市大平の部落の東南灰ノ木に接する高地に所在した。井伊谷宮(祭神宗良親王)の東北約四キロの三嶽は、引佐町井伊谷の北境を限る長嶺で、三峰がそびえたっており、中央の標高四六七メートルに三嶽城があった。井伊城の本城である。
 この三嶽から当市滝沢町をへて山路を六キロで大平につく。大平城は、標高一〇二メートルの丘頂を本丸にしている。地域がせまく、高くないが、周囲に群峯をめぐらした山城である。