そののちの宗良親王

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 宗良親王は、貞和三年(一三四七)に吉野にゆき、楠木正行の出軍に合流しようとし、美濃まで進んだが、そこから前進できず、信濃にひき帰すこともできなくなり、尾張犬山(犬山市)・鳴海(名古屋市)から遠江をへて、駿河の宇津山をこえ、狩野貞長の本拠安倍城に入った。半年ののち、信濃の大河原に帰っている。【竜潭寺】なお『竜潭寺記』によると、弘和二年(一三八二)宗良親王は、また伊勢から遠江井伊城により、元中二年(一三八五)八月十日薨去したという(『磐田市誌』)。
 また尊氏は、高師冬を遠江井伊城攻撃の戦線から関東地方に転戦させ、親房らを制圧させた。戦いは康永(こうえい)二年(一三四三)十一月に一応の終止符がうたれ、翌三年二月師冬らは鎌倉に帰った。

宗良親王墓(引佐郡引佐町 井伊谷宮)