正平二年(一三四七)八月、正行は紀伊(和歌山県)の有力な武士団の隅田党(すだとう)を攻め、九月には河内八尾城をおとし、藤井寺付近で、細川顕氏(あきうじ)を破った。さらに正行は、山名時氏と顕氏の連合軍を住吉・天王寺(大阪市内)で撃破する。足利方は、高師直・師泰兄弟を総大将とし、佐々木道誉など東海・東山・西国の大軍を編成して反撃にうつった。正行は吉野の朝廷におもむき、後村上天皇に最後の謁見をし、如意輪堂(にょいりんどう)の壁板に一首の和歌を記したといわれるのは、この時のことである。吉野朝廷では、敵と兵力が大差あるのに正行に迎撃させた。北畠親房の作戦だとの説もある。
正平三年(一三四八)正月四条畷(しじょうなわて)(大阪府北河内郡四条畷町)の合戦は、正行の最後を飾った。正行の戦死によって、吉野がたは直接たのみとする最後の武力を失った。