足利尊氏・直義兄弟、とくに直義は夢窓疎石のすすめにより、元弘以来の敵味方一切の戦没者の遺霊を弔うために、安国寺と利生塔の設定を発願した。暦応元年(一三三八)ころから康永(一三四二-一三四四)・貞和(一三四五-一三四九)にかけて全国におかれたろう。安国寺は従来の禅宗五山派(ごさんは)の足利氏や各国守護と檀那関係など特別な関係をもつ有力禅院を、そのまま一国一寺の安国寺に認定すればよかった。利生塔は、ほとんど真言・天台・律などの旧仏教の有力寺院に設定されたものが多い。安国寺内に利生塔の設定された場合もある。利生塔は五重塔らしく、仏舎利二粒が納められてある。初期室町政権は、民心宣撫と武力の守護と寺塔の宗教性を加味した政策をうちだしたと、評価されよう。
【貞永寺】しかし直義・尊氏の死亡により、寺塔の性格は変わった。安国寺は、守護の保護が厚く、官寺に昇格したものもある。利生塔は衰えてきた。遠江国の安国(貞永)寺は、小笠郡大浜町大坂に所在した(『貞永安国寺文書』)。利生塔については不明である(今枝愛真「安国利生塔について」『史学雑誌』第七十一編六号)。