第三期 足利氏の中枢部で、尊氏の弟直義(一三〇六-一三五二)と足利家の執事高師直(ー一三五一)との勢力争いが、表面化した。この両巨頭を中心に尊氏をまきこみ、武家がわの分裂の戦いが、貞和五年(一三四九)から延文元年(一三五六)にかけてつづけられる。まず高師直が正平六年・観応二年(一三五一)二月に殺されると、直義と尊氏・義詮(よしあきら)父子とは不和になった。直義は北陸道(ほくりくどう)(わが国北方の地域)をへて鎌倉に入る。直義は鎌倉幕府の滅亡したのちまもなく鎌倉に滞在し、関東の経営にあたったので、東国の豪族を味方につけることができると確信していた。
尊氏は、事態の容易でないことをみて南朝に降参した。北朝はなくなるわけで、これを「正平の和談」とよんでいる。【飯田荘】後村上天皇は、後醍醐天皇の例にならい、光厳上皇に長講堂領や遠江飯田荘などを保証した(『園太暦』観応二年十一月廿六日条)。
【引馬宿 佐与中山 懸川】尊氏は直義を打倒しようとし、南朝では京都を奪回しようとした。十月二十八日尊氏の将小笠原政長は、信濃から遠江に入り、直義の党吉良満貞の代官富長某と引馬宿で戦い(「佐藤元清軍忠状」『伊勢佐藤文書』所収)、翌十一月五日政長らは、直義党の上杉憲顕と佐与中山で戦った(『伊勢佐藤文書』『鶴岡社務記録』)。尊氏は義詮を京都に残し鎌倉に向かい、十一月二十六日懸川に駐軍している(「足利尊氏軍勢催促状案」『榊原文書』所収)。
伊豆国府(三島市)につくと、関東の豪族で、直義の戦線を突破して、かけつけたものが多い。翌正平七年(一三五二)正月、尊氏は直義と講和して鎌倉に入るが、二月に直義は急死した。『太平記』には毒殺されたと書いてある。