【遠江南朝軍 天野景顕】この動きに応じて閏(うるう)二月、後村上天皇は、密使を信濃国(しなののくに)(長野県)にだし、宗良(むねなが)親王を征夷大将軍とした。そして新田義宗・義興らは上野(こうずけ)国(群馬県)で兵をあげ、信濃国の同志をあわせ、閏二月十八日鎌倉に侵入している。奥州の北畠顕信(あきのぶ)は白河関に出陣し、その前軍は下野(しもつけ)(栃木県)に進み、東西から関東地区をはさむ体制をとった。親王軍と尊氏軍とのあいだには、二十八日に最後の決戦があり、親王は信濃に帰り、三月十二日尊氏は鎌倉を回復した。これで関東地方での南朝の組織的な抵抗は終わった。五月に後村上天皇は、吉野の奥の賀名生(あのう)に帰られる。八月十七日北朝の弥仁王が位につかれた。のちの後光厳天皇である。このころ三河と遠江の南朝軍は、近江(滋賀県)に向かった(『園太暦』)。翌正平八年・文和二年(一三五三)に、犬居城主天野景顕は、上総親王を北朝にひきわたし、今川氏を通じて尊氏に降った(『天野文書』天野氏は経顕ー経政ー直景ー景隆ー秀政ー景政ー景顕とつづく)。
しかしこののちも南朝の皇子をはじめ、新田氏の一族は、各地で機会あるごとに挙兵している。尊氏は正平八年八月十二日鎌倉を出発し、京都に向かう。京都をめざし南朝軍の攻撃がつづいていたからである。
直義はすでに死亡したが、その嗣子で尊氏の子直冬は、南朝に降参し、正平九年(一三五四)から京都に接近し、翌年入京した。南朝では直冬を総追捕使とし、諸国の守護を統轄させるが、直冬は敗戦し、すぐに西国に退いた。
【遠江の兵 今川貞世】延文四年(一三五九)室町将軍義詮は、南軍を撃つため軍隊を集めた。心省の子今川貞世も駿遠の兵七百余騎をひきい参戦している。十二月十九日義詮は、諸軍をひきいて出陣した。この作戦は義詮方の決定打とはならなかったが、それに向かい一歩前進したといえる。
康安元年(一三六一)に細川清氏は南朝に降り、十二月に、南朝の軍は京都にせまる。今川貞世は、三河・遠江の軍七百余騎で山崎に陣した。しかし貞世は一戦もせず、鳥羽の秋山に撤退した(『太平記』三十七)。
貞治元年(一三六二)十月将軍義詮は、参河・遠江の軍を丹波(兵庫県)に送り、山名時氏を征伐させた。