第四期 貞治六年(一三六七)将軍義詮と鎌倉御所基氏が死亡した(今川貞世は出家して、了俊という)。将軍となった義満は、十歳の幼年である。阿波(あわ)(徳島県)・讃岐(さぬき)(香川県)の守護細川頼之(一三二九-一三九二)は、義詮の遺言で斯波義将にかわり執事(管領)に就任した。義詮の正室渋川幸子は、義将と結び、隠然たる勢力をもっていた。頼之は反斯波氏の頭目として自分の政権を安定させ維持することができた。頼之は綱紀粛正の法令をだし、幕政の基本方針をさだめ、財政をたてなおし、禅寺・禅僧をとりしまるなど努力をかさねる。