九州では征西将軍宮懐良親(せいせいしょうぐんのみやかねなが)王および肥後菊池氏と、鎮西探題一色範氏・薩摩守護島津貞久らの勢力が激突しあったが、親王軍は探題の所在地筑前(福岡県)を手中に収め九州をほとんど制圧した。延文三年(一三五八)三月、尊氏は勢力を回復するため中国・九州に出発しようとしたが、義詮に固く止められ、しかもその翌月死亡した。懐良親王は博多を攻略し、四国に進む勢いを示した。建徳二年・応安四年(一三七一)幕府は、渋川義行を罷免し、今川貞世(了俊)を鎮西探題として下向させた。執事(管領)が斯波義将から細川頼之に更迭したための人事である。了俊は、これからのち二十五年にわたり島津氏を中心とした勢力で、北軍の勢力を挽回することに成功した。