南北朝の動乱が長期化し広範囲に波及した原因は、武士の向背が明白でないからである。それは、武士をささえている農民たちの新陳代謝のはげしいことが、大きく作用した。同じ家の武士が敵味方にわかれる。近隣のものを語らい、支配者をおいだす。寝返り降参など、離合集散もはげしすぎた。しかし鎌倉幕府以来の主従関係は、多くのタイプがあり、譜代の家来でなければ、極端なばあい離反の自由があるといわれた。たとえば建武二年(一三三五)の中先代(なかせんだい)の乱で、足利方の敗戦が必至となったとき、渋川義季は、新参の家来に向かい、「新参者の去就は心任(まか)せ」といったという。