【領家職 地頭職】足利尊氏は、建武三年(一三三六)九月、東寺(とうじ)(教王護国寺)領の山城国上久世荘(かみくせのしょう)(京都府久世郡)の公文(くもん)(管理人)の作田(さくた)(真板)大弐房が味方したので御家人(ごけにん)とし、東寺のもっている領家職(りょうけしき)の半分を地頭職(じとうしき)として与えた。このほかにも実例があり、尊氏は南朝を倒すため、自分の所有地を広げたい豪族の動きを利用し、貴族や社寺の荘園の土地の半分を勝手に豪族に給与した。大弐房は、尊氏に味方したので、新たに十町(約一ヘクタール)六段(一段は一〇アール)歩の土地をえた計算になる。これが半済(はんぜい)(年貢の半分を支払うとの意味)である。
【土地の半分】このため尊氏に味方するものが多く、わずかのあいだにその地位は固まった。南北朝の動乱のはじめころの尊氏のこのような革新的な傾向は、有力な部将においていっそう強かった。しかし部将や土豪たちの無制限な欲求をそのままにしておけば、尊氏らの立場が危険になる。尊氏らも荘園領主であり、北朝にむすびついた貴族・社寺の力も無視できない。