【年貢の半分】観応三年七月、幕府は、前年と同じく、武士が荘園を押領するのを禁ずるとともに、近江(おうみ)(滋賀県)・美濃(みの)(岐阜県)・尾張(おわり)(愛知県)三か国の貴族の荘園の年貢の半分を、兵粮料所(ひょうろうりょうしょ)との名目でその年一年だけを守護に与えた。これがふつうに半済といわれる立法である。八月には、戦場の拡大することをみこして、適用の地域が拡張された。これら幕府の立法手続は、尊氏が鎌倉にいたのだからその指令をうけて義詮が主宰したのである。貴族たちは年貢の半分をうしなうが、戦いの終結とともに半済分のものを返してもらう権利を幕府から保証された。豪族や守護たちにとっては、自分たちの土地を不法に拡大することができなくなった。彼らにとってかなり反動的な政策である。
幕府の土地政策は、革新と反動をくりかえしながら進められる。
貞治(じょうじ)元年(一三六二)五月、幕府は、美濃・尾張両国の貴族・社寺領を半済にし、守護土岐頼康(ときよりやす)に給与した。貴族がわにかなりの不満もあったが表面化しなかった。