応安の新令 村櫛荘のばあい

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 このような抵抗の動きを感じとった幕府は、応安(おうあん)元年(一三六八)六月に、天皇の決裁をうけて「天皇・上皇御領・社寺、関白(かんぱく)領は半済をやめ、そのほかの貴族領には実施する」ことにした。たとえば京都の東寺領遠江村櫛荘(当市村櫛町)では、「一国平均の法」として、半済分を知行する武士がいた。つまり遠江の国内の貴族や社寺の荘園は、すべて半済になり、半済の支給をうけた人があったわけである。しかしいま寺社領の半済分を返すことになり、幕府は守護代を召致して九月中に実行せよと指令した。十月になっても実行されないと東寺は訴えている。