しかしこの法令が発布されると、守護や武士たちは、貴族や社寺の荘園に乱入する。そして年貢の半分の取りたてだけでなく、土地までも奪ってしまう。しかも遠江国のすべての荘園(明徳二年十月今川仲秋は鎌田御厨の半済分を松井助宗に与えた。『蠧簡集残篇』)をはじめ若狭国太良荘(たらのしょう)(福井県遠敷郡)などもこの半済が行なわれているから、法令に定めた八か国以外でもひろく実施されたろう。守護は兵粮米を管理したり、これを部下の武士たちに支給する権限を認められていたからこれを利用し、公認された以外の荘園に対しても、半済といい、自分の部下にわけ与えた。【弥半済】極端なばあいには「弥(いや)半済」(『東寺百合文書』た十一応永七年十一月十五日)といい、半済になっている荘園の残り半分をべつの部下に与えたりした。