【遠江のばあい】貞治三年(一三六四)五月、北朝では遠江国司に指令をだしており(『天竜寺重書目録』)、その四月「国司前伊予守源朝臣直氏」は勧進して梵鐘を鋳造し、府中蓮光寺に寄進している(第二章第一節参照)。五月の「国司」と同一人物かもしれない。直氏は土岐姓。同族頼雄の女は今川了俊の妻になっている(『尊卑分脈』『土岐系図』)。こんな関係で直氏は遠江守を勤めたのであろう。【南朝と北朝の国司】そして正平二十年(一三六五)九月、南朝では源光遠(土岐姓らしいが判然しない)を遠江守にし(『土屋文書』)のち北朝でも国司を任命しており、応永八年(一四〇一)八月には、遠江国目代盛高がいた(『平田寺文書』)など、過渡期の姿が残っている。まだこの時点で、遠江の国守は政権者が守護に移る過渡期の存在価値をもっていた。