今川貞世

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 幕府諸将の間の争いで、細川清氏は将軍義詮に疑われるようになり、今川貞世も同類のように受け取られた。貞世の父心省は、貞世に清氏を説得させ、万一の場合は刺し違えさせようとした。心省と貞世の行動は、義詮に褒賞され、康安元年(一三六一)に心省の隠居はゆるされ、貞世が家督をつぐことになった(『難太平記』)。
 貞世(了俊)は、貞治五年(一三六六)四十一歳のときから、幕府侍所の頭人(応安元年弟の仲秋と交代)として、翌六年六月から父のあとをうけ引付頭人をかね、幕府政治の要職についた。【九州赴任】了俊は、応安(おうあん)四年(一三七一)九州探題として赴任し、応永(おうえい)二年(一三九五)まで不在であったから、遠江守護として実力をつけることはできなかった。
 了俊は赴任するにあたって一首の歌を管領細川頼之に贈った。
 
 「何となく心にかけて思ふかな浜名の橋の秋の夕暮」
 
 そして頼之から「御分国(ごぶんこく)(遠江)ゆめ/\相違あるべからず」と保証をうけて安心して下向したという(『今川記』)。
 
 【奥山氏】遠江の横地・奥山らの土豪を引率したが、彼らのうちで戦死者も多かった(『今川記』)。

今川貞世書下状(浜松市 蒲神明宮蔵)