しかし嘉慶二年四月八日付室町将軍家御教書の宛所(あてどころ)は、今河右衛門佐(仲秋)である(尊経閣文庫所蔵『天野文書』)。二月二十三日からこの間に遠江守護は了俊の弟で養子の仲秋に更迭している。
【今川状】了俊が仲秋を戒めたという『今川状』は、了俊の自作ではない(川添昭二『今川了俊』)。ただそのような事実はあったかもしれない。
仲秋は明徳二年(一三九一)十二月、山名氏清の反乱に駿河守護今川泰範とともに功をたてた。仲秋は「御馬廻の軍奉行」として活躍した(『明徳記』)。
将軍義満は応永二年(一三九五)六月薙髪すると、仲秋も七月二十四日出家した。