名田経営の解体 新名体制へのすすみ

510 ~ 511 / 706ページ
 農業生産力の発展のちがいから近畿・西国などの先進地帯と東国の後進地帯とでは、時間的にずれているけれども、南北朝時代(一三三六-一三九二)になると、日本全国の社会構造が変わってきた。その第一は、鎌倉時代以前からの名主による名田(みょうでん)経営(旧名体制)が解体したことである。すなわち惣領(そうりょう)が一族を統率し、直営地は家族や屋敷うちなどにおいてある下人(げにん)たちに耕作させ、大部分の名田(みょうでん)は一族や間人(もうと)・名子(なご)・脇在家(わきざいけ)などに請け負わせていた旧名体制(きゅうみょうたいせい)という農業経営が、新名体制(しんみょうたいせい)に進んでくる。
 
 【ふえる小名主】京都の東寺(教王護国寺)の荘園であった山城国(京都府)の上久世荘(かみくせのしょう)は、はじめのころ、二人の荘官(しょうかん)(管理人)と十一人の名主(みょうしゅ)がいた。しかし鎌倉時代末の土地台帳には、三十四名、南北朝になると急速にふえて、五十二名が名主として登録されている。大規模な名田が分割されて、小規模な名田がふえたのである。ふえたぶんの名主は、小面積を耕作しているにすぎない。この小名主はいままでの大名主から完全に独立はできない。その名田を耕作させてもらえねば、小名主の生活は維持できない。しかし東寺は、彼らが年貢を納める能力のあることを認め、登録して年貢を確保しようとした。播磨矢野荘(はりまやののしょう)(兵庫県相生市矢野町など)の成円名(みょう)をもつ成円(じょうえん)は、公文(くもん)(管理人)の下人であり、真蔵名(みょう)の半分をもつ円道も同じ境遇であった。加賀軽海郷(かるみごう)(小松市中海町)で、元徳元年(一三二九)に「岩上清三郎がなこ江四郎」は、二十年のちの文和二年(一三五三)に、一反三十代(一反は五十代)の江四郎名(みょう)をもち、一貫三百十六文の本役を負担する地位になっている。関東地方などでは、この下人の中には「ほまち」・「しんがい」などという、やせた土地をすこしずつ開墾して、生活を豊かにしながら、大名主からの開放の時期をまっていたものもあった。大きな名主もこの人たちの実力を認め、また所領を拡大し、支配を強化するため、名子や下人たちの地位を上昇させ、所領の経営をまかせることになった。この現象は地域差があっても全国的に現われる。