【広島氏 堀江氏】都田御厨 現作田は八十九町歩、上方と下方にわかれている(『宮司公文抄』)。延文(えんぶん)二年(一三五七)五月、領家職は、洞院(とういん)実夏に与えられるが(『雨森善四郎氏文書』)、応安(おうあん)四年(一三七一)正月、将軍義満の執奏で実夏の子の公定の知行になる(『愚管記』応安四・正・十七日条)。応安七年には、領家の洞院公定(とういんきんさだ)が収入銭の減少したのを歎いている。領家洞院氏の代官は守護代甲斐三河守、その代官池島(応島であろう)は上方の地頭、下方の地頭で代官は堀江城(当市舘山寺町)の堀江(中安)氏である。土着の堀江氏の押領したという係争が多い(『宮司公文抄』)。永和(えいわ)三年(一三七七)二月、伊勢神宮が重い負担をかけたと名主たちは、京都に訴えてきた。洞院公定は神宮の祭主(さいしゅ)と問答させたが、解決しなかった(『洞院公定日次記』『洞院家領綸旨写』)。翌年六月、幕府は遠江の守護に、都田御厨を、また、至徳元年(一三八四)八月そこの半済分以外を同じく公定の雑掌に引き渡すよう守護今川了俊にめいじた(『吉田文書』)。
【東寺領】『東宝記草本裏文書』五には、毎月廿一日の論義の対象として「遠江国都田御厨五百貫云々」とある。洞院公定が領家職を東寺に寄進したのであろうか。