浜松荘 延元四年四月後醍醐天皇は、妙音堂領であった浜松荘を左衛門督に給与した(『集古文書』)。南朝の人の官歴は不明なことが多い。妙音堂は『親元日記別録』に「今川上総介雑掌妙音寺僧」とある今川氏の雑掌であろう。【岡部郷】応安三年(一三七〇)十月、北白河宮は京都賀茂社の片岡社に対し、浜松荘岡部郷を保証している(『座田文書』)。
【詫磨氏 了俊と浜松荘】浜松荘は、後醍醐天皇領のため、北朝方におさえられた。観応元年(一三五〇)八月、尊氏の子で直義の養子直冬は、詫磨宗直に浜松荘などを給与した(『詫磨文書』)。しかし直冬は、九州から東上する計画をたて中国地方を地盤にし、尊氏に反抗し、文和四年(一三五五)正月、一時京都を占領した。尊氏は京都奪回をはかり進攻する。三十歳の了俊は、細川清氏に従い戦った。清氏は、恩賞をかけて誘ったので了俊は応諾した。了俊は笠原荘と浜松荘とが欠所地になっているので、その代官職を要求した。しかし清氏は、自分がこれを願い領有してしまう。了俊は怒り遠江にひきあげた(『難太平記』)。
【吉良領 嶋郷地頭職】貞治元年(一三六二)清氏が細川頼之の討伐をうけて死んでから、吉良満貞に与えられた。応安三年(一三七〇)満貞は、浜松荘のうち嶋郷四分一の地頭職を今川氏兼に給与している(『高橋文書』)。吉良氏は、のち代官をおいた(『鴨江寺文書』『寿量院文書』)。