村櫛荘 村櫛荘の年貢は、鎌倉末からのちは、米百石から六十石になったままである。
【地頭天竜寺】南北朝のはじめに、ここの地頭職をもったのは、高師直一族らしい高尾張守であるが、いつのまにか、斎藤越前守利泰にかわった。観応二年(一三五一)五月、利泰の妻尼性戒は、亡夫利泰の素意により、所有している村櫛荘地頭職(地頭職分の土地)の三分の二を京都天竜寺に寄進した。残る三分の一は、ここに住みついている利泰の子孫がうけつぐ。天竜寺は、地頭の収得(米)の三分の二を利泰の子孫から寄付をうけることになる。
【領家徳大寺家 本家東寺】領家職は南北朝時代になって、貴族の徳大寺家がもつことになった。しかも京都東寺に納まる本家米(ほんけまい)は、地頭天竜寺から四十石、領家徳大寺家から二十石をそれぞれ納めるように細分化されてきた。そして明徳元年(一三九〇)八月には、山崎弾正左衛門清懐が「村櫛庄領家方本家米御代官職」になっている。
東寺は地頭天竜寺をはねのけて、村櫛荘の一部分でも、確実に支配しようと努力した。【半済】村櫛荘では、守護による半済の実施が大きく影響した。領家が納める本家年貢でも、はじめ二十石であったが、明徳元年には五貫文で請け負われている。これは二十石の半済分十石をひいた残り十石にあたる銭である(上島有「東寺寺院経済に関する一考察」『国史論集』所収)。