鎌倉時代の武士や農民は、郷土をまもる神に強い信仰をもっていた。新興の真宗では、神社に参拝するのは弊風だといっている。【天台神道 真言神道】これに対し、天台宗と真言宗では、印度の仏が日本にきて、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)するため神になった(本地垂迹(ほんちすいじゃく)・神仏習合(しゅうごう))と説いた。これが天台神道・真言神道である。これには、真宗をはじめ道元のあとの曹洞宗でも大きな打撃をうけ、鎌倉末から南北朝にかけて神祇を祈りまつる、という宗義の大転換をした。元寇ののち伊勢(伊勢市)の大神宮を中心に伊勢神道が成立した。
天台・真言の旧仏教は、神国説を領主や地主の「守護神」という信仰にまでたかめた。いみじくものびてゆく、小さいが新しい無数の小百姓・小地主の生きているあいだの守りは神だ、と説いた。「没後は浄土教でもいい」とするこの教理で旧仏教は、新仏教に対抗することができた。