大山寺

521 ~ 523 / 706ページ
 【村櫛庄 和地村 永憲】旧和地村(当市大山町)の大山寺は、真言宗の名刹として、信仰と研学の一中心であった。横浜市金沢区に所在の金沢文庫(第二章第六節参照)から刊行された『金沢文庫文書』の第十輯、識語篇(一)には、
 
 (愛染)〓法密記
 (尾)書本云、
   文永七年三月廿八日、洛陽於花蔵寺、申時許書写畢云々、一交了(校下同じ)、
  于時文永十一年甲午九月廿七日、庚子、日曜
  亥時於備中国朝原寺東谷阿弥陀院、書写了、一交了、
                   金剛仏子尊意 卅七歳云々、
  永仁五年丁酉十二月十一日、於備中州朝原寺円満院、賜法印権大僧都御本書写了、
                   金剛仏子玄覚 三七歳云々、
   交合畢、
  于時元弘二年壬申正月十日、於遠州村櫛庄和地村御坊、賜権大僧都御本、令伝受、同書写畢、
                   金剛仏子永憲 卅七歳
   交合了、
 
とある。元弘二年(一三三二)正月十日に、永憲が遠州村櫛荘和地村御坊すなわち大山寺で「権大僧都の本」を受けて〓法密記を書写した。それは文永七年(一二七〇)京都で書写されたのが、備中(岡山県)の朝原寺に移り、そこで二回にわたり書写された本である。鎌倉幕府の滅亡を間近にして慌しかったのに、大山寺ではこのような書写が行なわれ、道場の威厳を保っていた。しかも大山寺は、永正十六年(一五一九)正月氏親、以下永禄三年(一五六〇)二月の氏真まで歴代の今川氏の当主などから寺領を保証されている(『大山寺文書』)。大山寺は、明治二十三年(一八九〇)以後に廃絶した。

大山寺旧跡(浜松市大山町)


〓法密記奥書部分 村櫛庄和地村御坊永憲書写(横浜市 金沢文庫蔵)