連歌

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 連歌が日本の詩歌の歴史のうえで、大きな意義をもつようになるのは、鎌倉中期からのちに地下連歌(じげれんが)がおこったからである。宮廷の連歌(堂上(どうじょう)連歌)に対する地下連歌で、花の下(はなのもと)連歌ともいわれた。それは地方の武士や名主たちが、神社や寺院などでひらいた連歌会である。
 
 【菟玖波集 今川了俊】この時代には『菟玖波(つくば)集』と『応安新式目』が編集され、大きな影響を残した。その指導者は、二条良基であり、地下の連歌師の救済(ぐさい)が助けた。南北朝の連歌は、地下連歌を土台とし幽玄な肉づけをされて発展してゆく。『莬玖波集』の撰集されたころ、了俊は善阿の門下順覚に学んだ(『了俊文伝』)。しかし救済の弟子周阿につき、のち二条良基について学び、周阿に批判的になった(『落書露顕』)。そして了俊は、二条良基から連歌の点者(てんじゃ)の地位を認められる(『下草』奥書)。永和二年(一三七六)了俊は、京都の二条良基に対し「このころ京都で流行の発句があれば、少々書きしるしてほしい」と依頼した。良基は「よい発句は独創性なし」と答えた(『九州問答』)。