中央政治機構

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 【評定衆 引付衆】管領の下の政治機構は、ほぼ鎌倉幕府の執権政治の体制をうけた。侍所(さむらいどころ)・政所(まんどころ)・問注所(もんちゅうしょ)はそのままで、越訴方(おっそがた)・仁政方(じんせいがた)・恩賞方(おんしょうがた)などがおかれ、それぞれの責任者である頭人(とうにん)をもって評定衆を組織し、引付(ひきつけ)頭人の下に引付衆(内談衆)がある。
 評定衆や引付衆は幕政の最高議決機関でなく、すべての決定権は将軍にあった。そして鎌倉幕府で事務をとっていた諸氏が任命されている。

足利義満像(京都 鹿苑寺旧蔵)

 【三管領】応安年間(一三六八-一三七四)ごろから斯波(しば)・細川・畠山という足利一門の最有力者が、かわるがわる管領(かんれい)に任命されることになった(三管領)。
 
 【伊勢氏】管領職が確立すると、政所の職務はおもに幕府の財政だけにかぎられ、康暦元年(一三七九)伊勢貞継が任命されてからその世襲になった。伊勢氏はのちにこの財政面での地位を利用して、幕府政治に対する発言権をもつことになった。問注所は文書・記録を保管する役所になってしまう。
 
 【四職】侍所は幕府や京都市中の警固にあたった。その長官の所司(しょし)が山城国(京都府)の守護をかねるようになると、その職責はなお重くなってきた。はじめは今川・細川・畠山・山名・土岐(とき)などの有力守護がつとめたが、室町時代の中ごろから山名・赤松・一色・京極の四氏にかぎられることになった(四職(ししき))。