地方行政機構

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 地方行政の機構は、鎌倉府をはじめ奥州管領・九州探題と守護・地頭である。
 
 【鎌倉府】鎌倉府(建武新政府では上野親王庁)の最高責任者は御所(ごしょ)(公方)で、尊氏の子基氏からはじまる。政治機構は幕府のをまねている。御所をたすけて管領(かんれい)(はじめ執事)がおかれ、評定衆・政所・問注所があった。管領は上杉氏が世襲する。管轄地域は、はじめ関東八か国に伊豆・甲斐を加えた十か国、のち陸奥・出羽を加え十二か国となった。
 鎌倉府には、司法・警察権・課役賦課権・土地処分権・軍事統率権などすべてが一任されている。
 
 【篠河御所 稲村御所】応永六年(一三九九)に幕府は、鎌倉公方満兼の弟満直・満貞を奥州篠河(郡山市笹川)・稲村(須賀川市)におき、鎌倉府の監督をうけ奥羽をおさえさせた。
 
 【九州探題 今川了俊】幕府は一色範氏・斯波氏経・渋川義行を九州探題としたが、その結果は思わしくなかった。つぎの九州探題今川了俊(範国の子)は、南朝勢力と有力豪族を圧迫して成果をあげた。しかし了俊は自分の権威をたかめ、私的支配を強化した。島津・大友の両氏は幕府に帰服するが、了俊には抵抗するという情況である。しかも了俊は対外通交・貿易の門戸の九州の支配者として利益をえていたなど、幕府にとって探題の地位に置いておくことができない存在となった。管領細川頼之が罷免され、斯波義将が任命されると、応永二年(一三九五)八月に了俊は召還される。
 幕府は渋川満頼を探題にしたが、探題の実力はしだいに低下してきた。