関東の騒乱

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 【上杉家の争い】関東管領(かんれい)家上杉氏のうち、詫間(たくま)は早く衰え山内(やまのうち)・犬懸(いぬかけ)・扇谷(おうぎがやつ)の三家が勢力をもち、管領職をめぐり暗黙の争いをつづけていた。応永二十二年(一四一五)犬懸家の禅秀が、鎌倉御所持氏の処分に不満をもち管領職をやめると、山内家の憲基がかわる。
 
 【禅秀の乱】足利義嗣は、禅秀をさそった。応永二十三年(一四一六)禅秀らは味方をつのり挙兵し、御所と管領は逃亡する。【今川範政】幕府は駿河守護今川範政・越後守護上杉房方に出征をめいじた。義嗣は禅秀を救援するため出軍しようとして、捕えられ、のち殺される。
 
 【将軍義量】義持の子義量(よしかず)は、十七歳で将軍職をつぐが、二年のちの応永三十二年(一四二五)に死亡した。義持は将軍の職に復するが、正長元年(一四二八)死亡するにのぞんで、その弟のうちから後継者をくじびきできめる、との重臣の進言を力なくきくよりほかなかった。青蓮院(しょうれん)門跡義円がえらばれた。これが義宣、のちの義教(一三九四-一四四一)である。