義教の政治

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 【今川範政 鎌倉府の滅亡】義教は将軍の独裁権力をうちたてることを政治目標とした。義教は鎌倉御所持氏が祝賀の使者もださず、反抗する態度をとるので、永享四年(一四三二)富士山の遊覧旅行を計画した。九月十日、義教は出発して、駿河守護今川範政のてあつい接待をうけた。しかし持氏は家来の一人もよこさない。そののち持氏は、管領の上杉憲実の進言をきかず殺そうとする。ついに永享十年に義教は持氏追討軍をさしむけた。持氏は自殺し、鎌倉府は四代、百年で滅亡した。
 義教は宮廷に対してもきびしく、延暦寺を征伐したり、守護でも小さな理由から殺してしまった。嘉吉(かきつ)元年(一四四一)六月、赤松満祐は義教を自邸に招き暗殺した。これで室町幕府の極盛期はおわる。
 【将軍義勝】義教の子義勝が将軍となり、満祐の追討に功労のあった山名持豊一族は、満祐の領地の多くを与えられ、管領の細川持之と対抗できる大勢力に復活した。