今川了俊の失脚

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 【堀越下向 海蔵寺】今川了俊は、応永二年(一三九五)閏(うるう)七月、九州探題を罷免される。そして駿河半国の守護職を与えられ不平のまま遠江に帰った(応永三年三月の伊豆『北条文書』)。しかも応永六年十月、大内義弘と鎌倉御所足利満兼の反乱に味方し、相模藤沢までいった。義満は関東管領上杉憲定に了俊の討伐をめいじている(「足利義満自筆御内書」『上杉家文書』所収)。しかし憲定の説得で了俊は降参し、遠江に帰った。そして甥の泰範の奔走で助命される。了俊は応永七年末から八年十月以前のあいだに上京したが、のち遠江堀越(袋井市)に下向し、応永十九年八十七歳から同二十五年九十三歳までのあいだにここで死亡したようである。同地海蔵寺(曹洞宗)は了俊の草創といい、寛延二年(一七四九)建立の供養塔がある。

今川了俊供養等(袋井市 海蔵寺)