遠江は斯波氏の勢力

536 ~ 536 / 706ページ
 【遠江守護 斯波義教】応永十二年(一四〇五)十一月十九日には尾張守護斯波義教(のち義重)が遠江守護になっている(『東寺百合文書』ミ八十一-九十二)。
 応永十九年八月二十五日、天野慶景の所領遠江山香荘の大結・福沢両村地頭職を、奥山某が押領した不法行為を排除するよう、斯波義教宛の室町将軍家御教書が発給された(尊経閣文庫所蔵『天野文書』)。
 
 【守護代甲斐氏】守護代は斯波氏の被官甲斐氏であり(『東大寺文書』四ノ四五)、引馬に鎮したであろう。しかし遠江の東部は、今川氏の支配下にあった(『天野文書』)。
 
 【斯波義健】義重のあとを応永二十六年に子の義淳(よしあつ)がつぎ、永享五年(一四三三)十二月その弟が還俗して義郷(よしさと)といい、あとをうけ、八年九月子義健(よしたけ)がついだ。十年鎌倉御所持氏の征伐に遠江から横地・勝間田らが出征した。
 永享五年(一四三三)閏七月、幕府は駿河守護今川範忠の入国を遠江・三河の兵に援助させている(『満済准后日記』)。翌六年五月、幕府は尾張・遠江両国に段銭(たんせん)をかけて越前(福井県敦賀市)の気比神社造営費に寄進した(『京都御所東山御文庫記録』)。両国とも斯波義郷が徴収してわたしたであろう。