斯波氏の内争

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 【斯波義敏】享徳元年(一四五二)九月、義健は死亡。一族義敏がつぐ。長禄(ちょうろく)三年(一四五九)五月、義敏は関東征伐の命をきかず、老臣甲斐常治を敦賀城に攻撃する。このため幕府の追討をうけ、八月義敏は子松王丸に家を譲り、周防(すおう)に逃走する。
 幕府は範忠・井伊氏の牢人らの動きを警戒し、南禅寺に指示した(『南禅寺文書』)。
 
 【斯波義廉】寛正(かんしょう)二年(一四六一)十月、幕府は松王丸を廃し、渋川義廉(よしかど)に家をつがせた。しかし寛正六年十二月、幕府は義敏を召還し、文正(ぶんしょう)元年(一四六六)八月、義敏を越前・尾張・遠江三か国の守護とした。ところが細川勝元らの要請で、九月十四日義廉は復職した。応仁元年(一四六七)正月、義廉は管領となる。五月義敏の兵は遠江にも入り、山名持豊の味方を攻めた。義廉のあとを義寛(よしひろ)(義良)・義達(よしたつ)とうけ、遠江守護もかねている。【守護代狩野氏】その守護代は甲斐氏から土豪の狩野宮内少輔(七郎右衛門尉)にかわり府中に住み、斯波氏の部下狩野加賀守は郡代である。
 今川氏は泰範ののち範政・範忠とうけ、寛正二年(一四六一)子義忠がつぐ(『今川家古文章写』)。